『 資本論 』の翻訳
鈴木 直
日本で最初に『資本論』全巻を翻訳したのは高畠素之(たかばたけもとゆき)だった。その訳文は全体として読みやすく、逐語訳原則の墨守などは見られなかった。新聞紙上でも「ただたゞその平明流暢なるに嘆服するの外はない」(吉野作造、『東京日日新聞』1926年1月8日)、「恐らく原文よりも解り易いと思はれるほど暢達な行文に譯出されてゐる」(石川三四郎、『読売新聞』1927年10月6日)などと絶賛された。驚くべきことに、高畠素之は独学でドイツ語を学んだ市井の知識人だった。
その時、猛然と巻き返しをはかったのが、遅れをとった官学アカデミズムだった。改造社から廉価版の高畠訳が出版された同じ日に、岩波文庫からは河上肇・宮川實訳の『資本論』分冊が刊行された。高畠は、もともと福田徳三率いる資本論翻訳グループの一員だった。片や河上肇は、1920年代に社会政策学会を二分した福田の最強のライバルだ。いわば学会の穏健派と急進派が『資本論』翻訳に舞台を移して本家争いを演じた。
その際、読みやすさを優先した高畠に対して、河上は徹底した逐語訳を優先することで、高畠訳の不正確さを炙り出そうとした。三木清も河上を応援した。しかし、高畠訳に対する二人の批判は、ほとんどが学校文法レベルの些末な言いがかりにすぎなかった。いわばアカデミズムの側が、逐語訳を武器に、自分たちの翻訳の学術的優越性を主張しようとしたのだ。こうして「市井の知識人=読み易い翻訳=社会改良をめざす穏健派」に対する「官学アカデミズムの学者=逐語翻訳=体制変革をめざす急進派」という意味のない疑似対立が『資本論』の翻訳を舞台に醸成された。昭和と共に始まったこの不毛な本家争いは、その後の官学アカデミズムの硬直した翻訳習慣と難解翻訳を生み出す一つの要因となった可能性がある。